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2012. 11. 25 降誕前第5主日礼拝

「日々、備える」  林陽子牧師
マタイによる福音書 25:31-46 / ヨハネの黙示録 19:11-16


マザーテレサのとなえるアッシジの「聖フランシスコ」の祈り

 「主よ、貧困と飢えのうちに生き死ぬ
世界中の同胞のために働く私たちを
そのことにふさわしい者にしてください
私をあなたの平和の道具としてお使いください
憎しみのあるところに愛を
争いのあるところに許しを
分裂のあるところに一致を
疑いのあるところに信仰を
誤りのあるところに真理を
絶望のあるところに希望を 
闇に光を
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください
慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを、私が求めますように、私たちは与えるから受け、許すから許され、
自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから」


2012. 11. 18 降誕前第6主日礼拝

「救いの約束」  林邦夫牧師
申命記18:15-22

 かくてモーセは民を山麓に留め、ただ独り山路を登り、この山に続くピスガの嶺からヨルダンの彼方に拡がる肥沃なカナンの地、やがて住まうべき約束の地を遙かに望みつつ、そこに生涯を閉じました。この次第は申命記34:1~8に記されています。
 独り去った彼の死はまことに寂しき死でした。しかしまたうらやむべき死でもありました。モーセの死後、その墓は知られず、記念碑のようなものは建てられなかったでしょう。ただ彼の全生涯において語ったこと、行ったことが、そのまま埋没することのない記念碑となり、彼は同胞の将来、諸民族の前途を神によってはっきりと望み見ていたのではないでしょうか。「気力は衰えず」をマルティン・ブーバーは「彼の新鮮さは逃げ去らなかったと」と訳しており、さらに感銘を深くさせてくれます。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つはともにモーセの宗教に起源を持ち、モーセの宗教は十戒に根底をおいています。預言者モーセは、聖書を通し、十戒を通して今日なおいきいきと生き続け、語り続けています。

2012. 11. 11 降誕前第7主日礼拝

「神の民の選び」  林邦夫牧師
創世記13:1-18

 「ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」(13:9)
 「さよならだけが人生さ」というわけではないとしても、私たちが生涯の中で何度か「さよなら」を言わねばならない時があるというのは事実です。アブラハムの人生にも重要な別れの場面が度々出てきます。故郷との別れ、親との別れ、ロトとの別れ、イシュマエルとの別れ、妻サラとの別れ、そしてわが子イサクや家族すべて、この地上の生涯との別れ。それぞれの別れは、アブラハム自身の決意によるものであったり、やむを得ない事情に追いつめられてのことであったり、そして死という不可抗力の出来事によるものであったりします。別れは喪失であり苦痛であると共に、ひとつの決着であり、また新たな出発でもあります。
 私たちもまた、そのような終わりであり始まりである数々の別れを体験し、さまざまな寂しさや不安や恐れ、そして希望といったさまざまな思いを味わって人生を過ごします。けれども、それらのすべての出来事や思いと共に、それらをすべて包んで、どんな時にも私たちと共にいて下さる方がおられます。神が共にいて下さる。ここに私たちの究極の希望があります。

2012. 11. 4 降誕前第8主日礼拝

「神さまのおむつ」  林邦夫牧師
申命記6:4-6 / マタイによる福音書19:13-15

 結論的に言うと、宗教教育の目的は子どもに聖句を暗誦させたり聖書の話を覚えさせたりすることではありません。このような事は副次的なものに過ぎません。肝心なのは、子どもを愛する能力をもつ人間、他人のために献身できる人間に育てることです。大切なのは、子どもが自由で自律的な人間となり、他からの借り物や受け売りではない良心を発達を発達させ、自己の良心を検証する尺度を見出すことであります。いたずらに不安のとりことなったり、信頼の心を失ったりすることなく、自己の道に確信をいだく人間になることです。物ごとを自分の頭で考え、惰性で生きてゆくということのない者になること、さけがたい苦難苦痛に耐え、現実から逃避せぬ人間になることです。そうして、幼児教育のこの段階でこんなことをいうのは奇妙に聞こえるかもしれませんが、平和な心で死に臨める人間になることなのです。幸福な人間とは、自分自身とも他の人間とも調和して生きることのできる人間、自己の人生の中に措定されたもの、つまり神と調和して生きられる人間です。しかしこれに到達するにはどうすればよいのでしょうか。