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2012. 2. 26 復活前第6主日礼拝

「イエスを見つめながら」  東島勇気牧師

◆「レントを覚えて」 《アメリカ合同メソジスト教会の礼拝資料集》
『灰から火へ』(1979年)
「主にあって愛する兄弟姉妹。代々の教会は我らの主の苦難と復活とを記念するこの期節を、深い献身の思いをこめて守ってきました。深い悔い改めと断食と祈りの時としてこれを守り、イースターに備えることが教会のならわしとなったのです。 信仰に導かれた者が、キリストの体なる教会に加えられるための洗礼の準備の時として、同時に、信仰共同体から離れていった者たちが、悔い改めと赦しを通して再び和解を与えられて教会の交わりへと回復される時として、この40日間は大切にされてきました。 したがって全会衆は、イエス・キリストの福音が告げ知らせる神の慈しみと赦しとを思い起こし、洗礼によって既に与えられている信仰を更新しなければなりません。 そこで私は、み名によって、この聖なるレントへとあなたがたを招きます。自らをかえりみ、悔い改めて祈りと断食と愛の献げ物によってこの期節を守りましょう。神のみ言葉に親しみ、これを味わいつつ、切に祈りましょう。」

2012. 2. 19 降誕節第9主日礼拝

説教題: 「パンくずを集める心」  林邦夫 牧師
聖 書:  ヨハネによる福音書6:1-15
招詞:詩編29:2 / 交読詩編 95:1-11 /讃美歌 21-419

 この奇跡物語の最後で「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンのくずを集めなさい』」と語っておられます。これは実に不思議な言葉です。5つのパンと2匹の魚で5千人もの人々を満腹させることが出来た主イエスが、何故こんなケチくさいことを言われたのでしょうか。いや、この主イエスの言葉に、この奇跡物語を解く鍵があるのではないでしょうか。主イエスは何よりもパンくずを大切にされたのです。人々から見捨てられ、顧みられない、忘れられてしまっている物や人々を大切にされたのです。この5つのパンと2匹の魚を差し出したのは、一人の少年でした。おそらく子どもの弁当、貧しい1回分のお弁当だったのでしょう。
 どんなに小さいもの、ささやかなものでも、それを差し出し、主イエスが祝福され、共に分かち合うとき奇跡が起こるのです。「分かち合い」という言葉が最近よく言われます。どんな些細なものでも、自分の持っている物を自分が独占するのではなく、それを分かち合う時、与える者も与えられる者も、神の恵みを豊かに共有できるのです。


2012. 2. 12 降誕節第8主日礼拝

説教題: 「愛のまなざし」  林邦夫 牧師
聖 書:  ヨハネによる福音書5:1-18
招詞:詩編95:1-2 / 交読詩編 32:1-7 /讃美歌 21-470, 21-402, 21-507

 この病める人の癒しの出来事は、一種の復活の出来事です。死人のよみがえりを意味します。ヨハネ福音書の考えでは、復活は遠い未来ではなく、今ここで起こる「復活」を意味しております。(5:25参照)
 この38年間患っていた人は、肉体はまだ生きていたものの、既に精神的には死んだ人でした。生きる願いが死んでいました。しかし、主イエスのまなざしと声を聞いて、奮い立ち、起きて歩き出したのです。「床」、つまり彼を押しつぶしていた悩みのシンボルを取り上げて歩く勇気と力が湧いたのです。 
 彼はさらに自分を癒してくれた方がイエスであることを他人に告げたのです。キリストの証人となったのです。実にここに彼の生きる意味が与えられました。もしキリストとの出会いがなかったら、この38年は無意味な生となるところでした。それが有意義な生へ至る準備として必要なものに変えられたのです。新しい光を帯びたのです。
 38年は決して無駄骨折りの廻り道ではなかった。キリストに出会い、この一回限りの人生に光が射し込み、生きる意味が与えられるのです。それにしてもこの願い、生きる決意を起こしてくださったのはキリストです。

2012. 2. 5 降誕節第7主日礼拝

説教題: 「自由を生きる」  林邦夫 牧師
聖 書:  ヨハネによる福音書8:31-38
招詞:ヨハネ4:23 / 交読詩編 125:1-5 /讃美歌 21-533, 21-531, 21-471

 新約聖書の中には、自由という言葉がたくさん使われています。今朝のヨハネ8:32に「真理はあなたたちを自由にする」と記されています。この言葉は日本でも外国でも多くの学校などで好んで用いられるものですし、関西学院大学でもいくつかの建物に刻まれています。そこには学問を修める者への励ましと願い、祈りが込められていることと思います。学問を修めることによって自主独立の人間になって欲しい、あるいはなることが出来るということでしょう。私はこの主の言葉からいつも関西学院の第4代院長ベーツ先生が学院のモットー " Mastery for Service" を説明して語られた次のような言葉を忘れることが出来ません。「奴隷になるな、自由であれ、人間であれ、主であれ、しかしそれによってすべての人に仕えるために」この言葉は、努力し、苦労して身につけたものを、自己の名誉と欲望のためではなく、捧げて生きよと呼びかけています。奴隷からの自由は、そこに留まらず、さらにその自由を愛において奉仕のために用いよと、力強く語りかけて下さっていることを深く思わせしめられます。