2009.3.29

説教題「十字架の勝利」

ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネ、その母がイエスのところに来て、イエスが王座に即くときに、その右に左に座らせてくださいと願った。この母親の態度はイエスを落胆させ、失望させました。イエスは「自分はエルサレムに上って、祭司長や律法学者によって引き渡され、死刑を宣告され、むち打たれる」と、その苦しみを告白しています。イエスの苦しみを全く理解しないで、息子の出世を願っているのです。自分の栄誉、栄光だけを願っているのです。「人間の本質は欲望だ。人間の欲望は地球規模に膨れあがり、制御不能に陥っている。私たちはその滅びの瀬戸際に生きている。」と言います。この際限のない自己中心、欲望、我執を克服できる思想、信仰が求められています。この混迷した時代を救う手立てはあるのでしょうか。イエスは言います。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。あなた方も同じように」と(:28)。イエスは、支配する道ではなくて、仕えていく道を啓示されました。イエスの生涯は、仕えることに徹底した生涯でした。そして、徹底して仕えたがゆえに、神から高く上げられ、あらゆる名にまさる名を与えられたのです。

2009.3.22

説教題「十字架を前にして」

マタイ福音書は、「高い山」の上で、主イエスが変貌したこと、モーセとエリヤがそこに現れて語り合ったこと、神御自身の声が響き渡ったことを記しています。どれも驚くべき不思議な出来事です。「今は、鏡におぼろに映ったものをみている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。今は一部しか見えなくても、そのときには、はっきり知るようになる」(コリントⅠ13:12)と言われるように、終末的な出来事です。こうした聖なる、輝かしい栄光に満ちた出来事が「高い山」の上で起こったと言うのです。旧約聖書を見ますと、モーセもエリヤも高い山に登っています。モーセはシナイ山で十戒を授与されました。エリヤはアハブ王の迫害を逃れてホレブ山に隠れているとき、神に励まされ、新たな使命を与えらました。神は、信じる者に「高い山」に登るように命じ、それぞれに使命を与えます。信じる者は、山に導かれ、自分たちが「旅する神の民」であることを知ります。その長い旅の途上で、やがて到達するであろう「約束の地」、神の国のしるしを垣間見せられ、将来の希望を与えられます。その神の希望を告げ、進むべき方向を指し示し、人々を励ます役割を担わせられます。

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