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2012. 7. 29 聖霊降臨節第10主日礼拝

「いのちのパン」  林 邦夫 牧師
ヨハネによる福音書6:22-40

その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

2012. 7. 22 聖霊降臨節第9主日礼拝

「破局からの救い」  林 陽子 牧師
使徒言行録27:33-44

 主を絶対的に信じる一人の信仰者パウロによって暴風の中、幾多の試練を乗り越え、神は奇跡としか思えない方法で276人全員の命を救われました。パウロはじめ皆は、マルタ島で冬の3ヶ月間を過ごし、その後ローマに入りました。たとえ囚われの身であっても、「ローマで主を証しなさい」との神のみことばに忠実に聴き従ったパウロは、ローマで2年間宣教活動をします。命がけの航海の後に始まった、囚人としての宣教活動です。獄中書簡と呼ばれるエフェソ書、フィリピ書、コロサイ書、フィレモン書は、ローマにての2年間に書かれました。
 当時「すべての道はローマに通ず」と言われたほど、古代ローマ帝国は繁栄していました。そのローマから、パウロが主の命に従って宣教したキリスト教は全世界へと宣べ伝えられていきました。
 パウロは2000年近くのキリスト教史上、最大の宣教者であります。徹底してキリストにある信仰に生きた人でありました。たとえ、囚われの身であろうとも宣教はできる。パウロは私たちにたとえどのような境遇にあろうとも、どのような困難にあろうとも、主に忠実に聴き従えば、きっと主は助けて下さるとのエールを私たちに送って下さっているように感じます。

2012. 7. 15 聖霊降臨節第8主日礼拝

「使命に生きる」  林 邦夫 牧師
ヨハネによる福音書9:1-12

 ヨハネ福音書9:6~の箇所では、主は生まれつき目の不自由な人を癒されたことが記されています。これは単に肉眼が開かれて、見えるようになったばかりでなく、いわば使命への開眼とも言うべき意味を含んでいます。彼は主ご自身の手による治療行為を受け、シロアム、すなわち遣わされた者の池に行って洗い、今まで見えなかった世界が見えるようになったのであります。彼自身遣わされた者となることによって、運命的な暗黒の世界から脱出し、明るい光の世界に生きる人となりました。彼は自ら体験したことを人々に証しする使命を果たしたということが8節以下に記されています。
 人は何によって生きるのか、という問いに対して私たちは永遠を思い、永遠と関わることによって生きることと答えます。しかし、それは「出会い」によって示される生き方であり、また神からの賜物によって、使命のために生きることに他なりません。
 運命から使命への開眼は、生まれつき目の不自由な人の場合のように、真実に使命に生きた人イエスとの出会いによって実現していくのです。いかに小さなタラントンしかなくとも、またいかに過酷な運命的苦悩の中にあっても、その生涯を通してその人でなければ表すことのできない輝きがあり、使命があると、主イエスは言われます。

2012. 7. 8 聖霊降臨節第7主日礼拝

「心の共鳴」   林 邦夫 牧師
ヨハネによる福音書4:46-54

 今朝のヨハネ福音書4:46~の箇所では、命と希望が強調され、「死にかかっていた」「死なないうちに」という暗い言葉を、「生きる」「生きている」「生きる」という明るい響きが三回繰り返し打ち消しています。50節の主イエスの宣言「生きる」から気分が一転し、やがてこの命の言葉が家いっぱいに響き渡ったのです。
 主イエスを信じ、その言葉に信頼する人には、生きる希望が湧いてきます。この共鳴、二重奏を私たちも体験できるのです。心の共鳴、これを遠藤周作は「心の琴線に触れる」という表現で説明しています。時の隔たりを越えて、神の愛は私たちに働き、「希望」という響きを起こします。
 神の愛は二千年後の今も、開かれた心、しなやかな心にはみなぎりあふれてきます。そして私たちの心に、信仰、希望、愛という響きとなって心の共鳴を起こすのです。 御子主イエスは十字架にかかるほどまでに私たちを愛して下さいました。この神の愛がわたしたちの心を動かし、豊かな愛の響きを起こすのです。

2012. 7. 1 教会創立120周年記念礼拝

「存在感の希薄な時代に」   阿部 恩先生
ルカによる福音書19:1-10

 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(新共同訳聖書より抜粋)