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2012. 6. 24 聖霊降臨節第5主日礼拝

「まことの礼拝」  林 邦夫 牧師
ヨハネによる福音書4:1-26

 神は霊である。物や場所、物質にとらわれる方ではないのです。神礼拝が場所に限定されるはずがありません。天地の創り主、全能の神、この霊なる神を礼拝するならば、どこであってもその人は永遠の命に至ることができるのです。 「神は霊である」人間の側も、感覚やうわべではなく霊と真心を傾け、心の深みで神を礼拝しなければ、まことの神礼拝をもつことはできません。オリゲネスという3世紀の神学者は「神は息吹である」と訳しました。パネンベルグという現代の神学者もこの訳を支持しています。「霊」(プニューマ)は「息吹」であり「風」でもあります。「神はわれわれの人生を吹き抜ける息吹である。すべての命を吹き抜ける、真理と自由の源である」(パネンベルグ) 信仰は見えるところで事を計りません。見えざる希望に支えられています。しかも霊の働きと実在を、私たちはこの礼拝で、祈りの中でありありと感じることができます。あの方は聖徒たちを従え、光の中に包まれて、今ここにおられます。

2012. 6. 17 子どもの日・花の日礼拝

「洗礼者ヨハネ」  林 陽子 牧師
ヨハネによる福音書3:22-36

洗礼者ヨハネは何と答えたでしょうか。27、28節では、主イエスに対するヨハネの判断は「天から与えられなければ」がキーワードになっています。天から与えられる神の力が主イエスの洗礼を成り立たせている。そこに神の赦しの力が人々に働いて、主イエスの洗礼を受けさせていると告げます。29節で、花婿は主イエスであり、花嫁は教会を指しています。そして花婿の介添人は洗礼者ヨハネであります。介添人は花婿である主イエスの声をひたすら待ち聞くものであります。ヨハネは主イエスの声を聞き大いに喜び... その喜びと感謝の思いは体全体に充満しつくし溢れ出る程の様子が伝わってきます。洗礼者の喜びは神から遣わされた主イエスを証言することであります。「神の栄光」「神のみ業」が現れるために、洗礼者自らのその持てるすべてを燃焼しつくすことをもって現す喜びであります。30節で「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と。存在としての洗礼者ヨハネは必ず衰えねばならない。わたしの燃焼によって、あの方主イエスの光は輝く。徹底して主イエスを証言する使命に生き抜こうとされる洗礼者ヨハネの姿がここにあります。

2012. 6. 10 子どもの日・花の日礼拝

「みどりのゆび」   林 邦夫 牧師
マタイによる福音書5:9

モーリス・ドリュオン『みどりのゆび』岩波文庫 この人は、1918年パリで生まれました。第二次世界大戦中、フランスがナチス・ドイツに占領されて苦しんだ時には、フランス国民の自由と平和を守るために戦った人でもあります。 この本の主人公は、チトと呼ばれるとても優しくて勇気のある少年であります。チトは、ミルポワルという町に住んでおりました。このミルポワルという町は世界一すばらしい鉄砲をつくる町で有名でした。チトのお父さんは大きな兵器工場の社長さんでした。 お父さんは、チトの教育を庭師のムスターシュにまかせました。チトはムスターシュからお花や庭木の育て方を習い、めきめきと腕を上げていきました。このチトには、他の人にない特別な能力が備わっていました。それは、チトの親指にありました。「みどりのゆび」といって、この指の触れるところどこにでも草が育ち、花が咲くという特別な指のことでした。チトはこの指を使って、刑務所を花だらけにし、すさんだ囚人の心を和ませたり、日の当たらないじめじめした町の一角をたくさんの花で飾って、そこに住んでいる人たちを喜ばせます。今や、ミルポワルの町は、チトの働きで、花いっぱいの美しい町になりました。

2012. 6. 3 聖霊降臨節第2主日礼拝

「聖霊の賜物」   林 邦夫 牧師
ヨハネによる福音書15:18-27

「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

(新共同訳聖書より抜粋)