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2014. 10. 26 収穫感謝礼拝

「お米の一生」 林陽子牧師
詩編65:10-11

◆収穫感謝礼拝 
神の恵みを受けて、こどもたちと共にある礼拝を献げます。大人も子どもたちも神の子とされていることを信じて希望をもって歩みましょう。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)
1部:礼拝「お米の一生」 主の愛餐
2部:小さなおにぎりと「ふじがおかシスターズ」によるお楽しみ
私たちが平和をつくりだす働きに参加するひとつのかたちとして「平和のきずな献金」を献げます。
送付先 インド・タグリットの子どもたちの就学支援に、フィリピンのスラムの子どもと母親たちの支援に、アイヌ奨学金に、在日外国人の福島の子ども教育支援に


2014. 10. 19 聖霊降臨節第20主日礼拝

「心の清き人々」 林邦夫牧師
マタイによる福音書5:1-12

◆教育週間について 10月19日~26日
 キリスト教教育週間は、ひとりひとりを大切にする教育の大切さを覚え、推進していく特別週間として、1951年
 から始まりました。国家の利益を大切にする教育ではなく、人間の尊厳を重んじるキリスト教教育の重要性について改めて考える時を持ちたいと願います。教会に託されている教育的使命を思い起こす時と致しましょう。


2014. 10. 12 聖霊降臨節第19主日礼拝

「負けて勝つ全能の神」 林邦夫牧師
ホセア書12:3-6 / マルコによる福音書14:32-42

「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(36節)これほど真実な祈りがあるでしょうか。主イエスはへりくだって死に至るまで、十字架の死に至るまで従順であられました。
 そして、「全能の父なる神」のみ心は、その独り子を十字架につけざるを得ないということでありました。ここに私たちは人間の罪がいかに深刻なものであるかを知らされると共に、罪の中にある人間を救うために、神はその独り子を十字架につけてまで、神の愛の切実さを知らされるのであります。
聖書の語る神の愛は、人間に負けるまでに、罪人である人間をとことん愛される真実な愛であります。
しかし、神はその独り子イエスを十字架の死からよみがえらせ、勝利されたのであります。この父なる神の全能のみ業を知る時、私たちもヤコブと同じように「泣いて恵みを乞う」ものとされるのであります。ヤコブは、イスラエルと名を変えられました。このイスラエルという意味は、単純に訳すことはできません。それはヤボクの渡しでの一晩中の出来事全体を意味する言葉です。
私たちもまた、神の独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって示された「全能の父なる神」の逆説的恵みによって、新しい命を受ける者に生まれ変えられるのであります。

2014. 10. 5 聖霊降臨節第18主日礼拝

「イエスとユダ」 林邦夫牧師
マルコによる福音書14:10-26

 カールバルトは長いユダ論を書いて、その中で「イエスの対向とユダの対立」という言葉で両者の関係を言い表しております。イエスの対向とは、どこまでも自分を開いて呼びかけることです。自分を差し出し、自分を捨て、共にあろうとすることです。
 それはすべての人に、一人ひとりに向けられた十字架の愛です。無論それはユダに向けられていないはずはありません。いやユダにこそ向けられていたのです。しかし、もしそれになお対立し、拒絶するならば、たしかにうめくほかないでしょう。主イエスの十字架とは、私たちのどんな対立にも、ユダの対立にも、主は向き合われ、自らを開いて待っておられるということです。
 過去を自分で償おうとするとき、私たちは死ぬほかありません。しかし、主イエスは、ご自身を裏切るような恐ろしい罪を犯した私たちをゆるし、受け入れて下さるのです。