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2015. 1. 25 降誕節第5主日礼拝

「故郷での預言者」 林陽子 牧師
民数記9:15-23/ルカによる福音書4:16-30

 イエス様の故郷ナザレでの出来事から私達は何を学ぶのでしょうか?まず一つ目は、幼いころから知っているなどの既成概念や偏見に捉われない、謙虚で柔軟、しなやかな信仰が求められるのではないでしょうか。城北教会に参りまして私が素晴らしいなあと感じるひとつに、教会の方々がみ言葉と人に謙虚であるということです。最も大切な信仰を養って頂いている事に感謝しています。そして二つ目は、それではイエス様の本当の故郷=本郷の地はどこにあったのでしょうか。それはナザレではなく、心から待って下さる父なる神様のいらっしゃる場所、天の御国が本郷の地でありました。私たちもこの地上にあっては、イエス様のおられる本郷、天の故郷を目指して歩む旅人です。常に御国を仰ぎ望みつつ、信仰の歩みを進めていきたいと願います。三つ目はさらに信仰が求められることですが、その事が今神様に願われていると感じます。イエス様のみ跡を慕いこの地上を歩む者として、主がこの地の故郷で歓迎されなかった口惜しく残念なお思いをお慰めするという大きな働きが残されているのではないでしょうか。それは私達が救われた喜びを愛する家族に身近な人に伝え、福音の喜びを共有しひとつになる時、その家庭がこの地上の本郷の地となり最高のお慰めとなるのではないでしょうか。


2015. 1. 18 降誕節第4主日礼拝

「お言葉ですから」 林邦夫 牧師
ルカによる福音書5:1-11

 この時、シモンは自らの破れを体験することによって、主イエスへの眼が開かれたのであります。シモンと一緒に居た者たちもみなとれた魚がおびただしいのに驚きました。シモンの仲間であったゼベタイの子ヤコブとヨハネも同様でありました。「驚いた」と記されていますが、驚きが彼を捉えたのであります。とれた魚のおびただしさに驚いた様子が活き活きと示されています。
  さらにシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(10節)シモンの罪の告白に対する主イエスの慰めと励ましに満ちた祝福の言葉であります。主イエスは罪のゆえに主をおそれたシモンに近づき、神の国建設の働き人として召し出されました。
  「人間をとる漁師になる」という主イエスの言葉は、ひたすらシモンに対して向けられています。シモンの変革、革新が告知されています。今まで漁師として魚をとっていたが、今からは神の国のために生きた人間を集める使命に生きるようにと。主イエスの召命に応じて、シモンたちは舟を陸に上げ、一切を捨てて主イエスに従った。
シモンと主イエスとの出会いは、シモンの生活を革新いたしました。ここには主イエスを通してあらわされた神の恵みに対するペテロの信仰の決断があったのであります。



2015. 1. 11 降誕節第3主日礼拝

「それぞれが与えられた恵みを感謝して励もう」 林邦夫 牧師
ローマの信徒への手紙12:1-8

 私たちは実にさまざまな賜物を神から与えられています。その違いやそれぞれの特質を際立たせることで他の方と競合したり、自己顕示的になるのではなく、何よりもそれらを私たちに与えて下さる神を仰ぐことにおいて、その賜物を一つのからだの器官として用いることができるのです。主なる神への応答は、命令に対する服従というよりも何よりも喜ばしい応答として始まります。ここに挙げられている務めが教会の存立のために特に重要な働きであるだけに、「神の恵み」を覚えつつ、「慎み深く」あらねばならないのです。
たとえばここで思い起こすのは「奉仕」に関するボンヘッフア―の味わい深い言葉の数々です。
  「キリスト者は、もはや自分を賢い者であると考えることはできないので、自分自身の計画や意図をも、いと小さいものと考えるであろうし、また、自分の意志が、隣人との出会いの中で、破られ、変更させられて行くのを、よいことと考えるであろう」。「極めて小さな、外面的な援助を実行することによって生じる時間的損失を心配する人は、多くの場合、自分の仕事をあまりにも重大に考えているのである。われわれは、神によって(われわれの仕事を)中断させられる用意がなければならない」(『共に生きる生活』)。奉仕とはこのようなものである。


2015. 1. 4 降誕節第2主日礼拝

「シメオンとアンナ」 林邦夫 牧師
ルカによる福音書2:21-40

このようなシメオンとアンナの姿には、キリスト者の生き方の大切な面が凝縮されて表現されているように思います。この二人は「神の約束を信じて待ち望む人間」です。そしてこの二人は「聖霊に導かれて救い主に出会う人間」です。そしてまた、この二人は「イエスさまに出会ったことを喜び、神をたたえ、その出来事を周りの人々に語り伝える人間」です。
  このように3つの姿勢の中で、第1と第2のこと、すなわち、待ち望むことと救い主に出会うことは、クリスマスまでのキリスト者の姿を表していると言えるでしょう。クリスマスからのキリスト者に求められる姿勢とは、これら二つに加えて第3のこと、すなわち救い主の誕生を喜び、神をたたえ、それを広く宣べ伝えることです。クリスマスのふさわしい信仰者の応答とは、そのような宣教の業において一つの実を結ぶのです。
  先に見たように、シメオンにとってメシアとの出会いは、彼の死期を告げる出来事でもありました。それでも彼はそれを喜び、自分の生涯を心から納得したのでした。彼の残した「ヌンク・ディミティス」はキリスト教会の歴史において長く受け継がれる神への賛美となりました。

2015. 1. 1 元旦礼拝

「命の光に導かれ」 林邦夫 牧師
詩編27:1-6 / ヨハネによる福音書12:35-36