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2014. 1. 26 降誕節第5主日礼拝

「新しい教え」  林邦夫牧師
申命記 30:11-14 / マルコによる福音書 1:21-28

 新しい教えを受け取る私たちの姿勢がどうあるべきかを考えさせられるのではないでしょうか。新しい教えが現れた時には、それまでの概念やこだわりを捨てなければ、受け取ることはできません。律法学者や祭司長たちは律法の教えが全てでそれを物差しにして、イエス様の言動を判断しました。しかし、新しい教えは律法の枠に収まるどころか、計り知れないほど枠を超えていました。律法学者たちは新しい教えを理解することができないだけでなく、自己保全のために、イエス様を教えもろともに抹殺してしようとしました。
 イエス様の新しい教えを聞いた人々は、真の意味でその教えを受け取ることができたのでしょうか。確かに主の権威ある言動に圧倒され、非常に驚き口々に見た出来事のうわさを広めました。しかし心の奥底から「イエス・キリストこそ真に神の子、救い主である」との告白するまでには至りませんでした。新しい教えを心霊の奥深くで受け止めるには、何よりも謙遜な心で祈りを深くし、自らの霊性、良心に語りかける声を聞き取ることが求められます。
 「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れなければならない」とイエスさまは語られました。来臨の約束をして下さいました主を新しい革袋を用意して待ち望みたいと願います。
 

2014. 1. 19 降誕節第4主日礼拝

「主に従うことは」  林邦夫牧師
マルコによる福音書 1:14-20

 「わたしについて来なさい」と主イエスは呼びかけられます。元の言葉はもっと鋭い、短い呼びかけの形で記されています。「さあ、わたしのあとに!」とでも訳せばよいでしょうか。それは、それ自身においての威力ある語り掛けでありました。ペトロとアンデレは「すぐに網を捨てて、イエスに従った」のです。従うか、やめようか、そんなに慎重に考えて従ったとは思えません。慎重に考えていたら、従わなかったでしょう。もちろんあれこれと考えることは必要です。ペトロは一家の大黒柱でした。家族の誰も、ちょっと待ってといいたくなるでしょう。人間的には当然かもしれません。しかしここでそのように考える余裕はなかったと思います。それほどに彼らは主イエスの招きに圧倒的な迫りを感じ取ったのです。
 まず信じるのです。まず従うのです。そうせざるを得ないのです。それからその意味が、その困難さもその喜びも分かってきます。それが信仰に関わる一面の真理にほかなりません。「網を捨てて」とは、どういうことでしょうか。ルカ福音書では「一切を捨てて」とあります。結局同じことですが、ヤコブとヨハネは父ゼベタイを捨ておいて、ということです。彼らは「自分たちの持っていたその網をおいて」、つまり、その職業、生活、そして家族をそこに残して、主イエスに従っていったのです。 
 

2014. 1. 12 降誕節第3主日礼拝・教会標語礼拝

「祈りを心の糧に、生きる指針を聖書に」  林邦夫牧師
箴言 16:9 / 詩編 119:105-112

 2014年の教会標語に、「祈りを心の糧に、生きる指針を聖書に」が与えられました。この標語には、信仰生活にとっての二つの柱が掲げられています。つまり祈りの大切さとみ言葉に聞き従うことの大切さが込められています。私たちはこの1年感謝と喜びの中で礼拝生活、伝道と証しの生活を大切に歩んでいきたいと思います。
 まず兵庫の公判部、「生きる指針を聖書に」という言葉について思いを致す時に、真っ先に思い起こさせられる聖書の箇所が詩編 119:105-112 でありました。特に105節「あなたの御言葉は、私に道の光、私の歩みを照らす灯」です。この言葉は聖書に出会い、信仰に生きんとする者の原点です。み言葉が、私の道の光、私の歩みを照らす灯となるように、どんな状況に置かれても、何よりもみ言葉に聞き、み言葉に信頼する信仰生活でありたいと思います。
 次に「祈りを心の糧に」という言葉について考えます。私たちはいつも主の祈りの中で「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ります。祈りを欠くことのできない心の糧としてしっかりと心に刻むことが求められています。毎日の三度の食事と共に、いやそれ以上に祈りを通して示される神のみ心、願いを己が生きる糧とするように、そして祈りを通して養われる霊性を大切に。
 

2014. 1. 5 降誕節第2主日礼拝

「神殿のイエス」  林邦夫牧師
ルカによる福音書 2:22-38

 だれもが赤ん坊でした。しかし、誰もがそのことを忘れてしまっています。赤ん坊の姿は、キリスト者である私たちに対して、神の前にあっては昔も今も、わたしたちは赤ん坊のように弱く、小さな存在であり、神の恵みと憐みの中でしか生きていけない生き物であることを教えています。
 生まれる前から死の後に至るまで、徹底して神の取り計らいの中におかれているにもかかわらず、そのくせ、どんなに世話をしてもらっても、そのありがたみを感謝することの少ない存在。それにもかかわらず、神によって愛され続けている者として今この時を「生かされ生きている」存在。それがわたしたち人間の姿であることを、赤ん坊は指し示しています。
  赤ん坊を抱くということは、信仰的な経験であり、神学的な経験です。それは、神もまたこのようにして私たちを抱きかかえていて下さるということを知る経験となるからです。この上なく繊細な力の加減と微妙なバランスのとれた神の腕の中で、わたしたちは守られ、支えられ、愛されていることを、わたしたちの腕の中の赤ん坊が教えてくれるのです。

2014. 1. 1 元旦礼拝

「愛とゆるしのメッセージ」  林邦夫牧師
マタイによる福音書 11:28

 八重は、アメリカから来ていたゴードン宣教師の家に、マタイによる福音書を学ぶために、一日も休まず通い続けました。しかし、初めて学ぶ聖書の言葉です。わからないことがたくさん出てきます。特に、マタイ福音書の5章に出てくる「汝の敵を愛せよ」という言葉に、八重は激しく抵抗します。薩摩や長州の人々をどうしてもゆるすことができません。
  しかし、マタイ福音書を読み進めていくうちに、八重はこれまで体験したことのない慰めを受けます。マタイ福音書11:28にこんな主イエスの言葉が出てきます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」ここで言う「すべて」の中には、八重もいるのです。「人をゆるすことができない」ことに悩み苦しんでいた八重にとって、その重荷をわたしに委ねなさい、と言われる主イエスの招きは、新しい人生を開く鍵となりました。
  八重の心の中に変化が起きたのです。主イエスの言葉によって、慰めと勇気を与えられた八重は、その感動を心に秘めておくことはできませんでした。務めていた女学校の生徒たちにその感動を伝えたのです。しかし当時はキリスト教に大きな偏見があった時代です。そのことが大問題となり、八重は女学校をくびになります。しかし、それは八重にとって、希望あふれる新しい人生の始まりとなりました。「八重の桜」は、現代に生きる私たちにとって、「愛とゆるし」という大切なテーマを、さまざまなエピソードを通して伝えてくれたのではないでしょうか。