Doticon_red_Cone.png聖書がお手元にない方は、日本聖書協会のホームページから検索することもできます。
Doticon_red_Cone.png賛美歌のメロディはこちらのサイト(外部サイト)がとても素敵です!

2014. 6. 29 聖霊降臨節第4主日礼拝

「主の憐れみ」  林 邦夫 牧師
マルコによる福音書5:1-20

 主イエスは、既に湖の反対側でひとりの男の苦しみを見、この男を救おうとされたのです。湖を船で渡られたのは、この男を深く憐れみ、この男が取りつかれている悪霊を追い出そうとされました。これは主イエスにとっては、おびただしい群衆に福音を説くのにも劣らない重要なことでした。しかし、この男には主イエスの憐れみが分からないのです。
 「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。』」(6-7節)この男は愛に飢えていました。主イエスがこの男に近寄り、愛を示そうとしても、それを素直に受け取れないのです。人が自分に近づいてくる時、それは自分を苦しめるために来ているとしか思えないのです。心を閉ざし、まったくの人間不信に陥っています。そして、他の人に対して不信になっているだけでなく、自分自身をも愛することができなくなっているのです。自分自身さえも愛することができず、すべてに希望を失っている状態です。このような男に誰も近づこうとはしませんでした。しかし、主イエスだけは、この男に近寄りました。この人を深く憐れみ、この人の苦しみを共に担い、この人の病を癒そうとされました。



2014. 6. 22 聖霊降臨節第3主日礼拝

「伝道する教会」  林 陽子 牧師
使徒言行録4:1-22

 必要な時に語るべき言葉が、聖霊によって与えられることは、すでに主イエスが弟子たちに約束されたことでした。ペトロは自分が聖霊に満たされ語ることを通して、かつて主が約束されたことが真実であることを知らされ、大いに力づけられました。
ペトロとヨハネは被告の立場に置かれていたが、今や権力者たちを全く恐れることなく語ることができました。その姿は、以前、大祭司の邸宅の庭で女の一言におびえ「わたしはその人を知らない」と、主を否定したペトロとは全くの別人でした。10節ではイエス・キリストによる救いを大胆に力強く述べるのでした。12節では、イエス・キリスト以外に人間を罪の中より救い得る人はいないと明確にメシア宣言をいたします。議員たちはこれ以上にペトロたちの教えが広まらないように、二人に決してイエスの名によって話したり教えたりしないように命じます。すると二人は、きっぱりと拒否し、神に従う道を選びとったのであります。
 初代教会より2000年の時を経た現在のキリスト者である私たちは、どの声に聞き従い、何を宣べ伝えるのでしょうか?今も昔も、私たち一人ひとりに働いて下さり、心の奥深くに語りかけて下さる神さまがおられます。宣べ伝え語るべき言葉をも導いて下さる聖霊なる神さまがおられます。一人ひとりに語りかけられる神の声を聞き取る群れでありたいと願います。




2014. 6. 15 聖霊降臨節第2主日礼拝

「苦難に耐えうる聖霊」  林邦夫牧師
ローマの信徒への手紙8:26-30

「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さるからです。」(26節)ここには聖霊がうめくと記されています。聖霊がうめくという表現は奇妙なようでありますが決してそうではありません。ここではあのゲッセマネの主イエスの祈りの姿が連想されます。主イエスはゲッセマネで人間の罪のために血の汗を流して祈られたとあります。その同じことを、パウロはここでうめきをもってと言い表しているのです。聖霊は私たちの罪や弱さや醜さにもかかわらず、神の前に切なるうめき声をもって執り成して下さるのです。それ故に私たちは自分の力では不可能なことでも、「聖霊よどうか祈ることを教えて下さい」と祈ることができます。祈ることができるようにという祈りをまず私たちキリスト者はしなければなりません。
それでは私たちは祈る時に何を祈るのでしょうか。私たちが祈る時、病める兄弟姉妹のため、また隣人のため、社会のため祈ることは大切な尊いことですし、それは私たちの力です。しかし、それだけではキリスト者は足りない。私たちは今どんなに惨めで、弱さや苦難にうちひしがれていても、やがて神の栄光に与ることが許されることを確信して、そのことをひたすら祈り求めることが大切です。




2014. 6. 8 聖霊降臨日ペンテコステ礼拝

「聖霊の賜物」  林邦夫牧師
エゼキエル書36:22-32 / 使徒言行録2:1-13

「このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」(コロサイ1:29)パウロは、はっきりと聖霊が自分の内に働くことを感じ、それに従って力を尽くそうとします。だから聖霊の示すことは、特殊な場合の精神の興奮状態においてというようなものではなく、事にあたっていかになすべきかと祈る時、わたしの内に聖霊が働き、わたしの思い、わたしの意志として働く、これが信仰生活というものであると思います。ですから考えるということは無駄ではない。祈るということは決して意味がないことではありません。そして静かに考え、祈るうちに、聖霊がわたしたちの内に入ってくるのです。
 一般的な例で言えば、聖霊の働きを身に染みて感じる時、それは求道者がはじめて祈られる時、初めて生ける父なる神よと祈る姿、まさにこのことの中に私たちは聖霊の促しというものをはっきりと見ることができます。このように考えると、聖霊とは、特別な宗教的なアクションではなく、パウロが「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であるということができない」と語っているように、イエスは主なりという告白のもとにあるならば、聖霊の働きのもとにあるということです。聖霊体験とは、イエスは主なりと告白し、今生きて働き給う神を告白し続けることであります。





2014. 6. 1 子どもの日・花の日礼拝

「かみさまのあいのたね」  林邦夫牧師
マタイによる福音書 5:3 - 5

「柔和」は、「やさしさ」「やさしい心」「すなおな態度」などと訳せます。それは「傲慢」「思い上がり」「自己本位」などと対照をなすものです。「柔和な人」とは、他者との関係において謙虚に自己と他者を同等に考えられる人ということができましょう。この謙虚という意味では、神に対するものと人に対するものという違いはありますが、「心の貧しい人」と通じ合うものがあります。
 「地を受け継ぐ」の「地」は天に対する地、世界です。この表現は詩編37編に見出されます。「主に望みをおく人は、地を継ぐ」(9節)、「貧しい人は地を継ぎ、豊かな平和に自らをゆだねるであろう」(11節)、「神に祝福を受けた人は地を継ぐ」(22節)、「主に従う人は地を継ぎ、いつまでも、そこに住み続ける」(29節)、「主に望みをおき、主の道を守れ。主はあなたを高く上げて、地を継がせてくださる」(34節)。詩編では他者という対人関係ではなく、もっぱら神との関係が語られています。イスラエルの民になされた神の約束が、ここにイエスにより教会という大きな枠で成就されることをマタイは語ろうとしているのです。