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2014. 9. 28 召天者記念礼拝

「信仰・希望・愛」 林邦夫牧師
コリントの信徒への手紙一13:1-13

 キリスト者は、人間と世界とのあらゆる出来事と現象とを究極的には、神のわざー創造と救い、支配と恵みーという観点のもとに受け入れて、これに従って生きてゆこうと努力いたします。人間にとって、生と死はこの世における存在の初めと終わりとを印づける時間的な両極であります。「生」は生まれることであると共に「いきる」ことであります。前者は「誕生」であり、後者は人生であるとも表現できます。
 ここで注目すべき点が一つあると思います。人の誕生が、例外的な事例は別として、多くの人々に祝福、喜びとして迎えられるならば、死もまた、神の手の中にあることが信じられる限り、祝福と喜びをもって、本人にも共に生きた人々にとっても受け入れられるものではないでしょうか、という疑問であります。そして事実、死は悲しみや痛みを伴いはしても、究極において、そのようなものとして受けとめられる面が、確かにあることを経験するものであります。私たちは決してこの事実を忘れてはなりません。死の意味は、死に逝く人と残される人々との間に新たに創造されるもの、見いだされるもの、しかも創造者なる神によって与えられる恵みとして、受け取られる他ないのであります。


2014. 9. 14 聖霊降臨節第15主日礼拝

「愛なくば」 林邦夫牧師
コリントの信徒への手紙一12:27-13:13

 パウロは、さらに「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と語りかけます。
 時と共に、いっさいのものが過ぎ去り消滅していく中で、いつまでも消滅しないで「在り続ける」ものがあるとうたわれています。それは、愛と共に、愛を通して働く信仰とまだ見ない将来を待ち望みつつ信じる、信仰による希望と、この三つのものです。しかも、「その中で最も大いなるものは愛である」とうたわれています。
  たしかに愛は、その働きとして「すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えるのです。」つまり愛は、信仰と希望を包括するほど大きいのです。しかし、信仰も希望も愛も、終末の時まで存続しますが、終末が来た後もなおずっと残るのは、最も大いなる愛だと。愛はとこしえに絶えることがないのです。この世において、私たちは成長し、考えることも、知ることも深く広くなっていくでしょう。しかし、神の前では、それらすべてが部分的なものであり、限界をもつものであり、不完全なものであることが知らされます。しかし、信仰と希望と愛とは過ぎ去ることも消滅することもなく、天国では、愛だけが実在すると語りかけているのです。

2014. 9. 7. 聖霊降臨節第14主日礼拝

「わが身の望みは」  林 邦夫牧師
マルコによる福音書12:1-12

 私たちに求められているのは、何か目立つ場所でのはなばなしい働きばかりではありません。私たちが隣人たちに対して一人のキリストとなり、私たちが遣わされる交わりの礎石となるというのは、人目からは隠されているが、しかし全体をしっかりと支えるというような働きであります。
  神さまはそのような奉仕と働きの場を一人ひとりのために必ず備えてくださっているのです。
  パウロも同じことを第Ⅰコリント1:26~28で次のように述べています。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」
  このようにして捨てられた石を隅の土台石にして下さるのは神です。この神を信じて私たちは祈り求めてゆくべきです。神は私をどこに、また誰のところに、そして何をさせるために遣わそうとしておられるのかを発見しなければなりません。