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2015. 3. 29 復活前第1主日礼拝

「十字架への道」 林邦夫 牧師
ルカによる福音書22:39-53

 さて、次にゲッセマネの出来事が伝えているもう一つのこと、それは弟子たちの弱さということです。それは「眠ってしまう人間」の姿の中にあらわに示されている事実です。「誘惑に陥らないように祈りなさい」とイエスさまから言われながら、弟子たちは眠っています。マルコ、マタイでは三度も言われながら、三度とも眠り込んでしまう弟子たちの姿が記されています。
 自分自身が「死ぬばかりに悲しい」という時には大声でイエスさまに助けを求め、船が沈みそうになった時には、「主よ助けてください。おぼれそうです」とすがりつき、眠っておられたイエスさまを起こしてまで助かろうとした弟子たちが、イエスさまの悲しみや恐れに対して鈍感なまま、眠り込んでいるのです。今この場では自分たちこそがイエスさまを支えなければならないと知っていても、そしてそのために目覚めたまま自分たちも祈らなければならないと頭の中では分かっていたとしても、現実には弱さのために眠り込んでしまう人間の姿がここにあります。こうした鈍感さ、弱さの中に、私たちは同じ信仰者としての鈍感さ、弱さを見出さざるを得ません。



2015. 3. 22 復活前第2主日礼拝

「終末の徴」 林陽子 牧師
ルカによる福音書21:7-19

キリシタン弾圧―岡城近くの城原村でのこと―     城原村にはキリシタンが多かった。村長もクレメンテと呼ぶキリシタンで、二人の息子と長男の妻もその子たちも信者であった。中川秀成はクレメンテ一家が背教すれば他はみのがしてやろうと持ちかけ、苦慮したクレメンテは家族の反対を押し切って、独自の判断で背教の誓文を提出した。クレメンテは息子に言った。「お前たちは自分で提出したのではないから、知らぬふりをしておればよい。それが多くの人を難儀に陥れないためなのだから」。しかし二人の息子は承知せず城へ名乗り出た。幕府には「キリシタンはいない」と報告したばかりの秀成は動揺し、二人を捕え父に説得させようとしたが父は拒否した。
 二人の息子は火刑にされる。けなげであったのは長男の妻マセンシアであった。彼女は役人の脅迫に従わなかったため、腰巻ひとつの裸にされ肌を刺す稲ののぎやざらざらした籾殻のついた俵の中に頭だけ出して入れられ、7日間部屋に閉じ込められた。それでも屈しない彼女を、役人は夫と義弟の処刑場に引き出し、火刑のすさまじい光景を見せ背教しなければ同じ刑罰を受けると説きつけた。彼女はただどんなことがあってもキリシタンであることを止めはしないと答えるだけ。役人は言った。「もしお前が死んだら、7人の子どもたちは身寄りのない孤児になってしまうだろう。そんな不人情な母親になってよいだろうか」。これに対しマセンシアは「無慈悲なのはあなた様がたで、私ではございません」。問答に疲れた役人の手で彼女は斬首された。首切り役人が刀を振り上げてから二度、背教の意志がないかと聞いた。髪を束ねて首をすっかり見えるようにし二度とも「否」と。

2015. 3. 15 復活前第3主日礼拝

「主の変容 ―旅立ちー」 林邦夫 牧師
ルカによる福音書9:28-36

 私たちにとって最も厳しい闇は、やはり死であります。肉体の死、魂の死であります。私たちがこの世から出ていくのは死ぬことによります。決定的にはそうなのです。別の言葉で言えば、それ以外に出ていく道はありません。私たちを脅かす死の闇の中で、主イエスは死について語られました。しかもモーセとエリヤが話し相手になっていたのです。
弟子たちは主イエスがモーセとエリヤと語り合う栄光の姿を目の当たりにします。重苦しい気持ちを引きずっていたペテロは、その宗教的恍惚の体験のゆえに、主の栄光の姿をそこにとどめておこうとしました。
 しかし主イエスの栄光は、解放をもたらし、貧しいものに身を傾けていくモーセやエリヤの後に続くように、その苦しみの中でこそ与えられるのです。そして主はエルサレムでの成就に向けて旅立って行かれます。その旅立ちは、私たちにも、日々十字架を負うために旅立つことを促しています。
 「主よ、ここにいるのはなんと素晴らしいことでしょう。」しかし、私たちはここにとどまりません。あなたは山を去るようにと命じておられます。ですから一緒に麓まで下りて行ってください。主イエスが栄光の中にとどまっておられないように、私たちも山にとどまることなく、エルサレムに向かって旅立たねばなりません。私たちも十字架を負うために旅立ちましょう。



2015. 3. 8 復活前第4主日礼拝

「蒔かれた愛の種」 林邦夫 牧師
マルコによる福音書4:1-9

《招詞:.ルカ福音書18:16bより》
 子どもたちをわたしのところに
来させなさい。
 妨げてはならない。
 神の国はこのような者たちのものである。

《みんなの祈り》
天におられる神さま
あなたの名前を呼び、わたしたちは賛美します。
あなたの愛と平和が、世界のすみずみにまでゆきわたりますように。
あなたの思いが、わたしたちの心と社会で実現されていきますように。
わたしにも、そしてみんなにも、今日の食事を与えてください。
あなたがわたしを愛してくださったように、わたしたちも互いに愛し合います。
わたしたちは弱いので、神さま、どうぞまもってください。
大地も、生命も、すべて大切なものはみな
あなたからの恵み、あなたのすばらしさを映すものです。 アーメン
  塚本潤一“日常のことばで「主の祈り」を書こう”
(『教師の友』2010年7,8,9月号)よりの改訂


2015. 3. 1 復活前第5主日礼拝

「へりくだる者」 林邦夫 牧師
ルカによる福音書18:1-19

 二人の人間が神殿にやってまいりまして、ファリサイ派の人間はその神殿を前に、自分がいかにちゃんとやっているか、生きているか、そのことに思いを向けて祈っています。一方の徴税人は、自分のやっていることや環境を省みればもはや前に進むことができない、後ろの方から下を向いたまま、「罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈ったというのです。これは短いたとえですが、読む私たちにとって、とてもぐさっと心に突き刺さる話であると思います。イエス様のたとえ話は、実はイエスさまが勝手に全部作ったというものではありません。作り話ではないのです。いつも何らかのモデルや根拠があります。この話もおそらくどこかの会堂で多分実際あったのだと思います。事実徴税人は嫌われておりましたから、多分ざんげする他なかった徴税人をきっと見かけて、その人のことを心に留めていたのだと思います。その上でイエス様は、神様に義とされたのは、ファリサイ派の人間ではなくして、この徴税人だったと言われております。
  そういう出来事が「子どもを祝福する」という出来事の前に置かれているということは、きっとそこに意味がある。そもそもルカはそこにある意味を見出して、このような配列にしたのだと思われます。