2010.9 .26. 召天者記念礼拝

説教題「信仰による生涯」
フィリピの信徒への手紙3:17-4:1

「彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」(ヘブル13:7)
この「終わり」は元来「逃れ道、出口」という意味です。試練と同時に逃れる道をも備えたもうと。どの人の生涯にも神が働いた救いがありました。その救いの事実を讃えたいと思います。


2010. 9. 19.

説教題「苦難を共にする」
創世記32:23-33 / コロサイ人への手紙1:24-29

「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(:24)とあります。さまざまな問題をもつ言葉です。主イエスは血の汗を流して苦しみました。その苦しみに不足があるというのでしょうか。「キリストの苦しみ欠けたところをわたしは肉体をもって補っています」という言葉も、傲慢に聞こえます。この「苦しみ」ですが、「スリピス」と言いまして、キリストの受難ではなく、使徒やキリスト者の負う苦悩、苦難のことです。「キリストの苦しみ」の「の」は、「所属」ではなく、「出所、原因、~から」です。キリストに従うことから生じる苦しみ、福音伝道から起こってくる苦しみを意味します。「欠けたこと」は「残されたこと」です。イエスの死と復活後、生まれたキリストの体としての教会形成のことです。それには身を削るような苦悩が伴います。しかし、その苦悩を厭わない。喜んで担うというのです。この「苦しみ・スリピス」は「女は子を産むとき、苦しむものだ」で使われています(ヨハネ16:12)。「陣痛」を意味します。新しい命を産み出すための苦しみです。「あなたがたの救いのため」、「キリストの体である教会のため」ならば、どのような苦しみも厭わない。どのような苦しみにも意味がある。無意味な苦しみはない。



2010. 9. 12.

説教題「忠実」
エレミヤ書6:16 / ペトロの手紙Ⅰ 4:7-11

「災いと大いなる破壊が北から迫っている。」(6:1b)

エレミヤはエルサレムの市民に向かって、警告しています。神も、彼らの罪悪を忍耐するのに疲れて、怒りが爆発しそうだと言います。それでも、彼らはエレミヤの言葉に耳を閉ざし、聞こうとしないのです。エレミヤの攻撃は、激しく預言者や祭司に向けられます。彼らは、民を正しく指導すべき立場にあるのに、言う所、行う所はみな虚偽に満ちています。国家の危機にもかかわらず、手軽に民の傷をいやし、平安のない時に、平安、平安と言って彼らの心を眠らせている。彼らの役目は元来、人の目をさまさせることにあるのだが、彼らの行う所は、反対です(14節)。エレミヤは勇気をもって市民の前に立って預言します。「主はこう言われる。『さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ、どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。』しかし、彼らは言った。『そこを歩むことをしない』と。」(16節)「さまざまな道」とは「別れ道、岐路」のことです。イスラエルの民は、「命の道」をとるか「死の道」をとるか、その岐路に立っていると叫んでいます。そして、幸いに至る道を選ぶことを求めています。


2010. 9. 5

説教題「主に託されて」
歴代誌下15:1-8 / 使徒言行録4:23-31

*「主よ、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」(使徒言行録4:29)。

ペトロとヨハネはユダヤ当局から、イエスの名によって語ってはならないと脅かされました。しかし、彼らは「神に従わないであなたがたに従うことが、神の目に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と答え、釈放されました。帰ってきた二人を迎えた教会では、もう駄目だ、諦めなければならいと言う人はいませんでした。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」と祈りました。彼らは、苦難から助け出されることよりも、大胆に御言葉が語ることを祈り求めています。宣教と証しが第一義だと言うのです。この信仰の在り方を学びたいと思います。使徒たちの生き方の中に、真理に至る道があることを信じたいと思います。主は彼らの祈りに答え、彼らに聖霊を満たして大胆に神の言葉を語らせたと言います。

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