2009.6.28

説教題「生涯のささげもの」  申命記 26:10-11 / コリントの信徒への手紙Ⅱ 8:1-9

モーセは、イスラエルの民の歴史を振り返り、神は一アラム人であった者を選び、エジプトに連れて行き、寄留させてくれました。そこで大いなる国民になったためにエジプト人から虐げられ、重労働を課せられ、苦しめられました。あまりの苦しみに耐えかね、叫び声を上げると、神は聞いてくださり、力ある御手と御腕を伸ばして、奴隷の地・エジプトから導き出し、乳と蜜の流れる地に導き入れて下さいました。そこで多くの賜物を得る恵みを受けました。神から与えられた賜物を神に献げ、住む地のないレビ人に、外国人の寄留者に、孤児に、寡婦に、与えなければならない、と教えています。パウロも同じように、コリント教会はマケドニア教会と同じように、自分よりも貧しい人、弱い人、自分よりも賜物の少ない人たちに援助を送らなければならないと。なぜなら、キリストはそのように生き、十字架に自らを献げたからです。「主の貧しさによって、豊かになるためです」。イエス・キリストを信じて、従っていくならば、自分よりも貧しい人、小さい人に愛を抱くようになり、助けを与えるように導かれると言います。

2009.6.21 特別伝道礼拝

説教題「子どもを好きなイエスさま」 マルコによる福音書 10:13b-16

イサクについて
イサク「彼は笑う」という意味。アブラハムはイサクの誕生のことを告げられた時、笑った(創17:17)。妻のサラも、もう自分は老いて子を産む能力もないと諦めていたので、心の中で笑った(創18:12-15)。イサクが生まれた時、アブラハムは100歳、サラは90歳であった(創17:17、21:5)。イサクは、父アブラハムに「あなたを大いなる国民にし、祝福の源にする」という神の約束の成就として生まれたのです。人間的にはおよそ不可能と思われる状況の中で、神はアブラハムに対する約束を実現したのです(参照創12:1-3)。後に神はアブラハムに、その子イサクを焼き尽くす捧げ物とするように命じ増した。イサクがまさにほふられようとした時、神はアブラハムの手をとどめ、いけにえの代わりの雄羊を備えてくださった(創22章)。イサクは成人し、リベカと結婚します。二人には20年間子がありませんでした。しかし、イサクの祈りが聞かれ、リベカはみごもり、エサウとヤコブの双子を産みます(創25:24-26)。イサクは寄留者としてカナンの地に留まっていました。


2009.6.14

説教題「子どもを好きなイエスさま」 マルコによる福音書10:13b-16

子どもの日・花の日です。礼拝堂にお花を飾り、子ども達に注がれる神様の祝福を祈ります。美しい花は、神様からの愛の贈り物です。花は声を出して語りませんが、見る人に神様の深い恵みを伝えています。子どももそうです。子どもも希望と勇気と慰めを与えてくれます。主イエスは「野の花を見よ。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」と教えられました。主イエスは「花を見よ」と、神の愛を認めるようにと言割れます。花を見ていると、苦しいときや、悲しいときや、さびしいとき、心が穏やかになり、慰められ、痛みもいくらか軽くなり、勇気づけられます。子ども達も、わたしたち大人に希望と勇気と慰めを与えてくれます。その意味では神様からの愛の贈り物です。主イエスは「だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決して出来ない」と言われています。子どもたちは、無くてはならないもの、目に見えないものを大事にすることを教えてくれています。その子どもたちと礼拝を共にする幸いを感謝し、喜びとしてください。


2009.6.7

説教題「神の召命」 イザヤ書 6 : 1-8

神を信じる者の働きとして二つの要素、祭司的と預言者的な働きがあると言われます。その預言者的働きに目を注ぎたいと思います。モーセは「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい」と、イスラエルの民の歩むべき方向を指し示している。そのような働き、役割が求められていると思います。今日のテキストはイザヤが預言者に召された記事です。「ウジヤ王が死んだ年のことである」(6:1)。BC742年、ウジヤ王はユダ王国に繁栄と平和をもたらし増した。その繁栄の終熄を迎えた野です。同じ年、アッシリアでは、古代オリエントの覇者となる野心をもったティグルト・ピレセル王が即位しました。偶然とは思えません.歴史を支配する神を思わずにはいられない出来事です。預言者イザヤは激しく変動する時代の中に遣わされました。あらゆる攻撃と迫害を克服して、右にも左にもそれない道を明らかにするのでした。イザヤは、狭い門から入りなさいと言われるように、厳しく、狭い道を歩まれました。それがイザヤとして生きる道です。

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